自分のせいではないのに!って思うアクシデントや日常の場面ありますよね。
ですが、起こる物事の要因は全て自分にあると受け取る方が実はとても喜ばしいのではないか、ということについてお話します。
人の態度や言動についても、目の前の人がそのように反応する原因は自分にあると考えます。
自分の預かり知らない事柄、他人の反応までなぜ自分に責任があると考えるのか?と不思議に最初は感じます。
自分に責任がある、というのは何がそんなに都合の良いことなのでしょうか。
全て自己責任であるならば、自分側を変えることさえできれば、周りの物事も相手についても全て変えることができると言っているのと同じだからなのです。
目に映る事柄を変えたいと仮に思ったとしたら、これほど都合の良いことはないのではないでしょうか。
プロジェクターとスクリーン
目に映る人や事柄は自分の内面が外に投影されていると捉えてみます。
ちょうどプロジェクターとスクリーンの関係が思い浮かびます。
スクリーンに映し出された人や景色は、実生活でいう私たちが見ている相手や事柄に相当します。
スクリーンの映像であれば、人は誰でも景色や人はそこには実在しないし、映像の元はプロジェクターから映し出されていると誰でも考えます。
実生活で映像元のプロジェクターに該当するモノは、私たちの内面(心のあり方)に相当します。
いきなりそう言われても、すぐにはそう思えないかもしれません。
私の場合は(なるほど!)と思う場面に遭遇できたことで受け取り方が変わってきました。
20年程前私はよく母親と口喧嘩をしていました。
たいてい些細なことで喧嘩になります。
ちょっと言い方がきつかったり、今しようとしていたことを指摘されたり、と私がわがままに腹をたてていたことが殆どですが。。
ある日また喧嘩になって、母親に向かっていつもと同じように言葉を発しようした時のことです。
(あれ?今から言おうとしてる言葉、母からいつも指摘されてることと同じだな…)と、ふと気が付きました。
今でもその瞬間のことははっきり覚えおり、自分にとってはかなりの衝撃でした。
何のことはない、自分が腹を立てていた母の態度は、母に見せていた自分の態度そのものだったのです。
そのことに気が付いた瞬間、言い放とうとしていた言葉が出なくなりました。
今から母に言おうとしているのは、いつも指摘されてる自分の態度のことだと思うたびに、口から出る前に言葉にはブレーキがかかるようになり、以後口喧嘩の数は極端に減っていったのでした。
まとめ
相手の態度を見るという行為は、自分の内面や自分が外に出しているものを自分が鏡で確認する行為と同じだとその時痛感しました。
それ以降は人の言動や態度を受けて不快に思ったとき、まずは自分が同じようなことを発信していなかったか振り返るようにしています。
既に映し出されたということ自体、自分が気付いてなくてもその事柄を内面にもっていることの何よりの証明になりますので。
コメント